懊悩

どうも、阿久津(@kidney0202)です。

本日もブログを更新して参ります。

最近映画のレビューブログのようになっていた当ブログでしたが、今月は休みが2日(うち1日は定期検診での休み)しかなく、業務の配分を完全に間違えてしまいました。2月は短いからと焦って、仕事をしまくっていたら月給がそれまでの2倍になってしまい反省です。

 

稼ごうと思えばいくらでも稼げる仕事ですが、私はこの仕事では適度に稼いで、適度に創作をして、適度に交流をしたいと考えているのです。お金があれば生活は潤うかもしれませんが、自由が奪われて心が貧しくなる。そんな当たり前のことを痛感した2月でした。

 

私はフリーランスのライター・編集者として働いていますが、ライターという形で文章を扱う仕事に対してはやりがいというものを殆ど感じていません。勿論楽しいと感じることもあるのですが、新鮮さや驚き、発見といったものはなくなりつつあります。

 

実務の面で言えば、ライターの職は

・決められた文字数で

・クライアントのオーダーを汲み取りながら

・平易な日本語で

・既存のものとは差別化した情報を記載しつつ

・読者に情報を提供し、アクションに導く

 

といったところでしょう。厳密にはこれ以外の要素もあるかもしれませんが、割愛します。ライターの多くは、上記の技術に不安を抱えていたり、書ける文字数やクライアントとの連携に不満を感じたりしていると思います。それを繰り返す中で「日に書ける文字数が増えた」「正確な情報を伝えられるようになった」「FB(フィードバック)が少なくなってきた」という成長を感じるのでしょう。

 

しかし私にはそれがありません。嫌味な字面ですが、これは中々に深刻で、仕事で得られる喜びや楽しみの大部分を失うことになります。意図してクオリティを下げることはあっても、最高のクオリティで書いたものにお叱りを受けることはありませんし、褒められても、それは当たり前なので嬉しくもありません。

 

校正や校閲をした段階で細かい修正指示が降りてくることはありますが、小説家の原稿など、トッププロの原稿でもそれは起こることです。私が原稿を寝かせて校正すればそれもなくなるのでしょうけど、原稿料を考えたときにロスが多かったり、そもそもそこまで指摘できるメディア編集者が少なかったり、ということで力を入れていません。尤も、覚えている限りでは半年以上お叱りも、そういった修正を送り返されたこともありません。

 

ですが10年経験しようが50年経験しようが、その人に意欲があるならば、新しい発見や喜びを見つけ出すことは可能でしょう。詰まるところ、私はこの仕事に対して諦観しているのです。もっと言えば、ライターという職の地位向上を掲げる私自身が、ライターという職を軽視し、愚弄しているのです。

 

そこに至った経緯は実に複雑なのですが、端的に申し上げると私が文章を愛していることに起因しています。

 

ライターという仕事の間口が広くなって、文章を書く人が増えたことに喜ぶ一方で怒りも覚えました。文章をクリック数でしか見られない編集者や、知識がないのに学ぼうともしない愚か者を見て、悲しみすら感じました。しかしそれももう、考えることに疲れたのです。

 

元より私は小説で人を感動させたくて、詩を詠んで誰かの心を揺すりたい人間なのです。有り体に言ってしまえば、論文も紙媒体もウェブメディアもブックライターも編集も運営も、私が創作をするための準備運動で、生活手段でしかないのです。それらを糧にして生み出されたものが、社会に出なくとも、誰にも評価されずとも構いません。

 

少なくとも妻は私の小説や詩を好きだと言ってくれて、私はそれに大きな満足と、小さな憤りを覚える。それで十分なのです。人を魅せたい気持ちと矛盾する、その贅沢な孤独が千切れるように苦しくて、日々死にたい、死ななければという思いに苛まれます。それと対峙しながら、今日も自分の力無さにもがくのです。そうやって魂から絞り出す一文字一文字を紡ぐのが、私の人生です。

 

考えてみれば、仕事に対してもそれ程の熱量で臨み、やりがいを求めるのですから、「ライター」と私の間にギャップが生じるのは必然とも言えます。それは事ライターに限った話ではなく、世の中に数多ある仕事から探しても、この熱量に応えられる仕事というのは数少ないでしょう。

 

 

 

所詮は傲慢な凡人の戯言なのです。